「僕は日本人です」とは 中高編

この記事は「僕は日本人です」とは - yuusanlondon’s blog (hatenablog.com)の続きとして書いてる。

上の記事では10歳半でイギリスに再び来たまでの話をした。この記事では高校卒業までを扱いたいと思う。引き続き、日本人であることや回りの「日本人」に焦点を当てつつ半生を振り返っていく。

小学生(10歳半~11歳半)

小五の夏に日本を離れた僕だが、学年が九月から始まるイギリスだと小六の初めにロンドンに来た、ということになる。一年だけ入った小学校はロンドンの市街地のごく普通の公立小学校だった。が、移民が多い地域だったこともあり、「英語が自由にしゃべれない」生徒をサポートする役回りの先生が一人いた。これにはかなり驚いた覚えがある。

僕はというと、人種差別を受けるかもしれない、と身構えて行った割にそういうことが何もなくて安心した。海外でのアニメ・マンガ・ゲームその他日本のサブカルチャー人気について - yuusanlondon’s blog (hatenablog.com)にも書いたように、イギリスの我々の年代の子供たちには、日本のサブカルの浸透率が高く、好感度も平均的には高いことが大きな理由だったと思う。ここで一番仲良くなった子はオーストラリア人とスリランカ人の子たちだったが、このうちスリランカ人の子は小学生ですでに結構アニメ*1を見る人だった。これに関しては日本人である僕でも見てなくて若干の申し訳なさと焦りを感じた。

人種的に多様なロンドンの、さらに移民が多い地域となると、そもそも白人が半分いるかいないかという学校だったので、疎外感もなかった。日本人は各学年に一人~二人居て、その大半は駐在員の子供(僕含む)だった。そのうち数人とまだ連絡が取れてるのだが、そのまま日本に帰国し日本の大学を出て日本で就職した人もいれば、また別の国へ駐在し、転々としている人もいる。この学校では人種的に日本人だった人はほぼ全員100%日本人だという自意識だったように感じる。2,3年で返ることが多い駐在員の子供なので、自然だろう。

この学校では色々な驚きがあったが*2、一番大きな驚きは、勉強の緩さだった。僕は東京でも普通の地元の公立に行っていたわけだが、脱ゆとりの時代だったのもあり、宿題は毎日漢字ドリルと算数ドリルが数ページ出た。ところが、このほぼ同じ条件であるはずのロンドンの小学校では、宿題は多くて週一回算数と英語で一ページずつ出る、という状態だった。漢字を覚えないといけない分日本の国語の方が勉強量が多いのはまだわかるが、算数に関しては、この宿題の量の差はそのまま実力の差につながっていた。現に、僕は日本では算数の出来は並だったが、新しい学校ではクラスで一番できることになった*3。ちょっと拍子抜けしたのと同時に、これは僕の中で「僕の数学や理系全般に関しての実力はすべて、日本の小学校に行ったことから来ている。ひいて日本人であることから来てる」という謎の価値観を植え付けた。

そういうわけで現地の学校では思ったより順調に滑り出したわけだが、家では人生最大の修羅場を迎えていた。というのも、10月上旬に、親が中学受験を勧めてきたのに特に深く考えずOKしてしまったからだ。ロンドンの郊外に、公立だけど入学試験がある男子一貫校*4があり、さらに試験形式がマークシート式なので、英語がダメな僕でもダメ元でワンチャンスがあるかもしれないという話を親から持ち掛けられ、ダメ元なら、と地下鉄に乗りながら合意した覚えがある。結果的にこの地下鉄合意からの3か月は24までの半生で一番過酷な勉強をした時期になった。

日本では親の金で英会話教室に通い学校の小学校の英語の授業でドヤり散らかしてた僕だが、当然現地の、それも中学受験をするような、生徒の足元にも100m以上及ばない状態だった。*5そこから、英語を受験科目として含む受験を3か月後にするというのだから大変にならないわけがない。幸い、11月にあった一次試験は、パズル的な要素が強い科目だった*6。マークシート式の試験をエスパーと運で乗り切ることがこのころから得意だった僕は何とかパスした。大変なのはその後12月下旬に控えていた数学と英語の二次試験だ。数学は「日本人パワー」でどうにかなるが、英語は長文読解や語彙のテストが出ることが分かっていたため大変だった。毎日学校から帰ったらご飯以外は勉強という生活が3か月続いた*7。父親は相変わらず常に出張中だったが、ほかに僕に英語を教えれる人がいないため、出張先からほぼ毎日スカイプで教えてくれた。今だからこそ教えてくれたという言い方ができるが、当時の僕にとって、スカイプの着信音は三途の川のせせらぎに聞こえた*8

こうした両親の努力や、大雪の影響で試験が二週間延期されるという幸運などもあり、なんとか合格までこぎつけた*9。そしてこの地獄のような勉強を、10歳という言語習得にほぼ最適な年齢でした結果、僕の英語力は現地の一般人と変わらない水準になっていた。この英語力の上達は学校の先生方にもとても驚かれたが、そりゃこんな無茶をする人はそうそういないはずだ。今でもどうやって英語を習得したか聞かれることがよくあるが、到底推奨できる方法ではないし、そもそも10、11歳ぐらいじゃないと普通十分な速さで吸収できないと思う。

地獄から生還した僕は上記のオーストラリア人たちとトランプをしたり*10、日本人たちとスマブラをしたりなどして緩い小学6年生を過ごした。

前記事のX君とその家族とも会った。X君の家族と会うときは、X君の母と僕の母が日本語でしゃべり、X君の父と僕の父が英語でしゃべり、X君と僕も英語でしゃべる、と分かれることが多い。X君は数単語日本語も中国語*11もしゃべれるが、それで会話をすることは難しい。このころから、誇れと言われ続けてきた「日本人」とは何かを僕は時折考えるようになった。最近聞いたところ、X君本人はイギリス人という自認だが、血縁的に引いている分日本や中国の文化に興味はある、とのことだ。彼は国籍上は日本人ではないし、アイデンティティーも違うし、住んだこともないし日本語も話せない。が、現行の法律だと日本国籍になりえた*12。では「日本人」とは何か。

中学生(11歳~16歳)

イギリスの中高の線引きは非常に難しい。11歳から18歳まで計7年あるのだが、明確に中学校と高校で分かれているわけではない。一応5年終わった後別の学校に行ったりすることもできるのだが、卒業式や入学式があるわけでもない。さらにややこしいことに、私立のシステムだとそのタイミングがまた違かったりする。なので、「中高一貫の学校に通ってました」とはいうものの、実態は「7年間ある中学校に通ってました」に近い。だけど、11歳から18歳というだいぶいろいろある期間を一つの「中高生」セクションにするのも気が引けるので、いったん最初の5年間と最後の2年間で分けることにする。書く量で言うと同じぐらいになりそうだし。

通い始めたロンドン郊外の公立男子校には、小学校と同じように学年に一人か二人日本人がいた。僕の学年にはもう一人、日本人のR君がいた。彼とはたまたま*13同じホームルームに所属していた。彼は生まれも育ちもイギリスなのだが、人種的には日本人で、日本語が少なくとも僕とは全く変わらないレベルでしゃべれた。家で日本語をしゃべってることや、ロンドンにある土曜補習授業校*14に通っていたことから得たらしい。彼は野球少年でイギリスのユース代表にもなったりしていた。イギリスでは野球はほとんどプレイされず、代わりにクリケットがメジャーだ。R君はよく、イギリスに甲子園がないこと、そして彼は一生甲子園を目指す機会がないことを嘆いていた。彼と公園でキャッチボールをしたことがあるのだが、僕は彼の球を受けきれず後逸し、そのまま使ってたサイン入りボールをなくした*15。そんな彼は、何人か聞かれると常に日本人だと答えていた。R君は日本で生まれたわけでも住んだことがあるわけでもない。が、風貌、話し方、知識などからは日本で生まれ育った人と容易に見分けがつかないし、国籍は日本だし、アイデンティティーは日本人だという。では「日本人」とは何か。

中学校に上がると、入試があり勉強を重視してる学校だったのもあり、宿題が一気に日本並みに増えた。それでも数学などはレベルが低かったのでよかったが、文系の科目はことごとく小論文、エッセイの宿題が出た。イギリスの文系科目では、基本的に大量の文章を書くことが求められる*16。それに、基本的に自分の意見を理由だてて書かないといけないので、歴史上の事柄や倫理道徳宗教的な問題、経済論にまで意見を持つことを求められた。理系科目に関しては日本とのレベル差をひしひしと感じていた僕だが、文系科目に関してはレベルの差というよりは方向性の違いを感じた。作文の宿題なんて長期休みでしかやったことなかったのがいきなり週最低1000単語*3,4本書くことになった僕は、毎週いかに最低単語数までかさましするかを考えながら弟が見ている子供向け番組を横目*17にゴロゴロする日常を過ごした。

2011年3月11日、僕は何も知らずいつも通り学校に向かった。午後のホームルームで、R君が、日本で大きな地震があったらしいよ、と教えてくれたが、M8.9*18と聞いて、さすがになんらかの誤解だろうな、と特に深刻に考えずに帰宅した。玄関を開けたとき母親の顔を見て、誤解なんかではなかったことを察し胃がねじれるのを感じた。幸い日本の祖父母や従兄弟は無事だった。

そこから2,3週間はイギリスでも地震のニュースでもちきりだった。学校でも募金活動があり、R君も僕も多めに入れた。普段は目立ちたがりだった自分が、地理の授業で震災が触れられたときクラスの視線がかなり痛く感じたことを強く覚えている。数か月たったのち、R君と、我々はまた一つ、同世代の日本人の大半が体験したことを体験しなかったことになった、という話になった。今後もなにか大きな事柄があるたびに、すこしずつ距離が離れていくような気がして焦りを感じた。

しばらくしてるうちに、イギリスに来てから3年がたとうとしていた。父の異動が迫っており、どうやら次は日本になるらしい、ということが分かってきた。日本の小学校の友人に、出発前に渡された「早く帰ってきますように」と書かれた紙きれ*19や、元彼女(笑)に渡された手紙*20などを見返して、3年間一度も一時帰国していなかった自分は帰国の機運を高めていた。相変わらず教育熱心な親は、日本で帰国子女用の編入試験がある中高を見つけてきて、とりあえず受けろと言ってきた。小学校の子たちの大半が進んだであろう中学に行けないのか、とは思ったが、まあ新しい人と会うのも悪くないとも思い、僕は編入試験の対策をした。試験は小論文*21とグループ面接で、小論文は普段から学校で書かされまくってた自分は日本語で書く練習を少しするだけで事足りた。本番では、日本語の小論文の課題で、「あなたが滞在してた国で、一番誇りにされているものは何か」という題が出た。歴史の授業で小論文を書きまくってた甲斐あり、我ながら中学二年生にしてはきれいな論理を組みたてながら、いかに旧大英帝国が現在のイギリスの国民気質へ影響を及ぼしているかを論じた。書きながら、僕は日本人で、日本の学校への編入試験なのに、イギリス人の目線に立って論理を組んでることを若干滑稽に感じた。次第に、「イギリス卒業論文」を書いている感覚になり、試験真っ最中に謎の凱旋気分に浸っている傲慢野郎になっていた。ほかの受験者と日本語で話すグループ面接では、ほぼ世間話みたいな話をさせられた覚えがある。「英語をまぜてもいいですよ」と試験官に言われたのだが、自分含みほとんどの人が日本語オンリーで話した。僕のグループで唯一英語を混ぜてしゃべっていた子が落とされていたことに関しては、今でも少し疑惑を感じている。

かなり手ごたえを感じながら親に報告したその数秒後に、実はイギリスに残れるように英国企業への転職活動をしてて、一社決まりそうだ、という話を聞いたときにはだいぶ乾いた笑いが出た*22。次の日、張り出された紙に自分の番号を見つけたときには、掲示板の前でちょっと失笑気味に笑う不審者になった*23

親は、自分や弟の性格的にイギリスに残った方がいい、との思いもあり転職活動をしていたらしい。実際に、日本の小学校ではいじめられてた自分も、イギリスだと小学校でも中学校でも何もなかったし、その後ゆるーくやらせていただいた・ているのもイギリスならではだとは思うので、客観的に間違ってはいなかったとは思う。が、思いっきり帰国の機運を高めていた当時の自分にとっては若干のショックではあった。

その後、出発する前に、連絡が切れてたけど住所は知っていた友人宅に凸しに行った。下町の街並みは3年ぼっちじゃほぼ変わっていなくて少しほっとしたが、少し見上げると前はなかった東京スカイツリーがたちそびえていて、謎の違和感を感じた。友人はというと、予告せずピンポンしておどろかしてみたところ、小学の同級生を数人集めてくれた。

「(僕)ってそろそろ帰ってくるはずなんじゃなかったの?」*24とファミレスのドリンクバーで10種類混ぜながら聞かれたときに、うつむきながら現状を伝えたときの「そっか~(ウーロン茶ジュースコーラカルピスごくごく)」のちょっとおどけたトーンを今でも鮮明に覚えている。元彼女(笑)の現在を知る人はいなかった。彼らと会うのも現状これが最後となってしまっている。

そういうわけで価値観の根底に日本人であることが埋め込められたままにもかかわらず、いつ日本に本帰国するのかわからなくなってしまった僕は、ますます日本人であるということを強く考えるようになった。そこで、少なくとも日本のメディアにもっと積極的に触れておこうという結論になった。上にも触れたが、イギリスの我々の世代では、日本のアニメ漫画ゲーム人気は相当に高い。クラスの中でもよくアニメを見ていた人と良く話すようになった。その流れで、いろいろなウェブ漫画を読むようになったり、涼宮ハルヒなどのアニメを見るようになった。ありがちな、部活ものの漫画などを読みながら、自分は一生日本の中高に行くことはないんだな。。。となり悲しくなったりもした。*25

ここで、本当に僕はこの時帰れなかったかを考えてみよう。当時僕は中2,3で、まだ一人暮らしできるほどしっかりしてない。が、祖父母や叔母は東京にいたし、中学生で一人で帰っていった人を僕は結構知ってる。逆に中学2,3年で海外に一人で留学しに来ている人も、さらに少数だけど知っている。もし僕がここで本気で日本に帰りたいと主張してれば、許されていたような気もするし、そもそも親も転職を頑張らなかったかもしれない。

まあ、この件に関してはそこまで自分は責任を感じていない。上記の数人はとても若いうちにとても強い自立心と目標意識があった、という異例の存在であり、それが特別なのであって、中2,3で親の都合に流されている僕はいたって普通だろう、と考える。また、帰ったとしてもそこで今現在と同じぐらい幸福な生活ができたとは限らないので、客観的に正しい選択かもきわめて怪しい。もっと後の選択に、より自分の選択、責任と言えるものがあるのでそこでもう一回詳細に考える。

そんなこんなで、特に目立ったイベントも実績もなく、中学も終わりが近づいてきて、全イギリス生徒が受けるGCSEという中学卒業試験を受けた。受験科目は、英語、数学、物理、化学、生物、経済、歴史、宗教、フランス語、音楽。後、学校外で、ノー勉で最高成績が取れることが確定していた日本語もついでに受験した。結果、なぜか英語の成績があまりよくなかったが、それ以外はどうにかなった。また、この年、参加したIntermediate Maths Olympiad(日本で言うJJMOに相当)でなぜかうまく行った結果夏の中学生用の合宿に呼ばれた。この合宿はその後の自分の人生に多大な影響を及ぼすことになる。

高校生(16歳~18歳)

中学の終わりに呼ばれたUKMT*26主催の合宿では、当然数学が好きな子たちがたくさんいた。中には一年後輩で、なぜかトランプゲームのラミーがすごい好きな日本人もいた*27。彼らとつるむのは楽しかったし話が合った。また、合宿のプログラムは数オリの練習だけではなく、大学数学の入門的な話もあった*28。これが非常に面白かった。ここで僕は数学科に進むことを意識し始めた。*29。が、そこで大きな心理的障壁が立ちはだかる。それは、小学6年生の時に培った「僕の数学や理系全般に関しての実力はすべて、日本の小学校に行ったことから来ている。ひいて日本人であることから来てる」という価値観だ。このころ自分の中では、日本で小学校に行ったんだから(もう6年たってるにもかかわらず)数学は人より出来て当然、というかなり飛躍した論理が成り立っていた上、数学科で学ぶことは直接仕事で役に立てれないので、よほど数学科が身にあってるという自信がないと後悔する、という印象を持っていた*30

という相談を副校長にしてみた。この副校長先生は、数学の先生で、かつピアノを弾くので、そのころ集会などでよく弾いてた自分を可愛がってくれていた。ある放課後、練習してたら外で聴いてた副校長先生がそのプロの演奏のCDを貸してくれたこともあったりする。その敬愛なる副校長先生は、一旦僕の話を聞き終えると、一瞬あきれた表情を浮かべたのち、「もし日本人だったらみんなできるレベルのことなんだとしても、あなたはその日本人なんだからそれを誇りにやりたい数学をやるといいのではないか」的なことを言った。これには納得せざるを得なかったし、そもそも「日本人であることを誇りにする」的な価値観を強く持っているはずだった僕にはクリティカルに効いた。

まあとはいえ、現実問題そもそも数学科に受かるのか、受かったとして卒業した後就職先あるのかとかいろいろ怖かったので、受ける学科を決める前に客観的な指標が欲しかった。12年生*31での数オリでのBMO2*32進出を目安にすることにした。ここから、一気に数オリの練習だけする人になった。人生で初めて親にも学校にも強制されずに自主的に勉強し、またそれを結構楽しんだ。

イギリスでは、高校ではALevelという試験を選択する。ここで4教科選択するのだが、数学はMathsとFurther Mathsで二教科としてカウントされるので、僕は数学(*2)と物理と化学を学んだ。この4つは通称The Asian 4と呼ばれており、アジア人がよく選びがちなセットと言われている。ひどいステレオタイプではあるが、上の「日本人だったら誰でもできる」的な価値観との適合性は高かった。

同じころに、一年上のVon M先輩が日本語部というものを設立するという話を聞いた。*33。待ってましたとばかりにVon M先輩に凸して入部した。唯一の日本人として即副部長になった。Von M先輩は金髪碧眼*34のカナダ人なのだが、日本オタクで中国オタクだった。そして、日本語と中国語が得意で、日本語を下級生に教えるために週一の日本語部を立ち上げた。

Vonというミドルネームは、元々はヨーロッパ大陸の貴族の出であることを示しているのだが、Von M先輩はそれをあまり快く思っていないらしかった。のちに、彼は大学に進んだぐらいのタイミングで、正式にYに改名した。改名した先の名前は、日本語と言われても中国語と言われても英語と言われても違和感のない名前だ。彼は、自身を「日本人」だと主張したことはない。が、彼は日本語をかなり流暢にしゃべるし、日本に数か月住んだこともあるし、名前は日本人にかなり寄せている。では「日本人」とは何か。

Von MもといY先輩とは、彼も数学科に進むつもりだったのもあり、すごく話が合った。イギリスの「部活動」は、週一回で昼休み中に30分やるというすごくソフトなものが多くて、日本語部も例外ではなかったのだが、なんか別の曜日に毎週放課後に二人で部室に残ってだべる時間が生まれた。これにより、ちょっとあこがれてたがあきらめていた「放課後部室でのだべり」というシチュエーションが実現することになり感動した。Y先輩もそういうのをやってみたかったんじゃないかな。

話は戻るが、めっちゃ対策しまくった僕は無事BMO2に進出を決めた。肝心のBMO2の結果は40点中10点という大惨事だったのだが*35、当初の目安を達成した僕は数学科への進学を決めた。また、数オリ対策は、ほかの科オリ対策にもなるらしく、物オリと化オリでもなんかいい感じになり、それぞれ12年生用の合宿に呼ばれた。この合宿でも物理や化学の面白さを力説されたが、このころは完全に意を決していたので、友達作りに徹した*36*37

一年たち、Y先輩が卒業となり、僕が日本語部長となった。部長となった自分は、かねてよりあこがれていた、ゆる~い部活!というものを実現するために奔走した。クリスマスが近いある日には「これが日本の伝統なんです!」でゴリ押してケンタッキーを校内で配布したし、節分には豆とお面を持ってきて、投げつけあった結果、カーペットの上で豆を投げると後片付けがめっっちゃ大変になるということを学んだ。名残惜しさがあったのか、一週間に一回放課後部室で残るのも一人で続けた。*38。肝心の日本語を教えるという本来の目的はというと、一年かけて部員十数人中半分ぐらいひらがなを半分ぐらい覚えた、ぐらいという体たらくだった*39。卒業する前に全権委任状をY先輩名義*40で書いて、自分を二代目部長として連名し、一年下に唯一だった日本人を三代目として任命した。あとで聞いた話だが、ちゃんと一年部長をやってくれた後、4代目を任命し、5代目まで行ったときに、コロナで全部活が一時活動停止になり、日本語部は自然消滅したらしい。

最終学年となり数学科進学を決めてた自分はますます数オリ対策をやった。大学受験の年でもあるのだが、数学と物理と化学だけやっていればいいイギリスの大学受験はそこまで大変ではなかった*41ので、ほとんどの時間を数オリ*42に費やしていた。その結果、前年の結果からさらに一歩進み春の代表選考合宿に進めた*43。ついでに物理と化学も春の代表選考合宿に進んだ*44。合宿は結果から言うと、ほぼ全滅だった。特に面白いのは化学で、実験で白い粉を複雑な手順*45を踏み黄色い粉に変えないといけなかったのだが、なぜか僕のサンプルだけ黒くなった。この実験に関しては、NMRで求められてた最終プロダクトの純度を測定してそれで各生徒を採点したらしいのだが、一サンプルだけ最終プロダクトはゼロだし、そもそも何なのかわからない謎の物質が含まれていたという話を試験官から聞いたときには失笑した。唯一完全な爆死*46ではなかったのは、一年中練習してた数学で、これは、バルカン数学五輪というバルカン半島の大会にイギリス代表として出れることになった。そもそもバルカン半島にイギリスは当然含まれないのだが、なぜか参加が認められていた。*47EGMOに日本や中国が参加しているのと同じ感じだ。UKMTは、この大会を、できるだけ多くの人に国際大会を体験させてあげる機会として活用しており、一人につき一回までしか参加できないことにしていた。幸いにも、イギリス勢は異常に僕の学年が強くて、*48春合宿参加者の同級生はほとんど何年か前にバルカン五輪にすでに行っていた。結果、僕みたいな正直春合宿行けただけでもラッキーな人にも声がかかった。

ここで、また疑問がある。僕は日本人なのに、イギリスを代表していいんだろうか?当時のUKMTのルール上は、3年イギリスに在住していたら代表してよかった。が、これは国によって結構ちがう。マレーシアに住んでいた韓国人の友人は、もし認められてたらゆうに代表になっていただろうにもかかわらず、マレーシア数学五輪協会の既定により代表になることが認められなかった。2年間の大部分を数オリに費やした自分にとっては参加しないという選択肢はなかったが、今でも思いっきりユニオンジャックが刺繍されてる当時の制服を見るたびに誇らしい気持ちながらも少しだけ違和感を感じる。

代表が決まった後はなおさらに練習した。バルカン五輪の過去問も、IMOのショートリスト(のうち簡単な方)も解いた。大会はマケドニア*49のOhridという湖に面した町で行われた。マケドニアなどは、そうそう行く機会がないので、その点すごくいい旅になった。連日晴れていて、湖に移る遠い対岸がきれいだった。一方空港から向かうバスからは、(マケドニアの中であるにもかかわらず)アルバニアの国旗を掲げてる集落の前にバリケードが築かれていたりしているのも見れて、民族紛争の名残というか現状も感じた。当時マケドニアを名乗ってギリシャとその名前に関して喧嘩していた現北マケドニアだが、ギリシャ代表もいる中で現在地をマケドニアと呼ぶとちょっと問題になりかねないので、Ohridと呼ぶように、とチームリーダーに言われたのは少し面白かった。

肝心の結果はというと、40点満点中5点という大爆死を遂げた*50。一問目は完答できたと思っていたので、それに致命的な欠陥が見つかったとチームリーダーから聞いたときには、半生で一番体の内部がひっくり返る感触を感じた。*51。そのあとは意気消沈しながらも、Ohrid観光を楽しんだ。本番前の取り決めで、表彰式では、イギリス代表で一番点数が高かった人をCaptain Brexit*52に任命して、彼は全身ユニオンジャック状態で表彰される羽目になった。帰国時、経由地のハンガリーでちょっとした事件があった。イギリス代表はイギリスのパスポート所持者4人と中国のパスポート所持者一人と日本のパスポート所持者一人だったのだが、どうやらハンガリーと中国の間ではビザなし観光が認められていないらしく、経由地として一瞬入国することさえ認められないらしかった。結局彼女は入国することなく直接イギリス行きの便にエスコートされた。一方日本パスポートでの入国はスムーズに認められた。外務省に感謝。なお、この大会に関して家族からは「マケドニアで負けドニア笑笑」と6年たった今でも煽られ続けている。

負けドニアからの帰国のフライト上で、本格的に受験勉強を始めた*53。幸い数オリと比べたら大したことない難易度で、数週間でどうにかなった*54。受験勉強本編より問題だったのは、英国永住権の取得だった。実は、イギリスの大学の学費は国内生と国外生でだいぶ違くて、一年につき3万ポンド弱=500万円ぐらいの差にはなる計算だった。国内生の学費が適用されるためには、イギリス国民であるか、イギリスの永住権を取得していないといけない。永住権を取得するための在住条件が、ギリギリ入学直前の8月に満たされることが分かっていた。そのため、8月までに、永住権のほかの条件を満たす必要があった。まず英語のスピーキングテストがあった。いや、中高ずっとイギリスの現地校行ってるんですが。。と思いながら高い受験料を払って面接官と世間話をしてると通った。これより問題だったのはLife in the UKという謎市民テストだ。Life in the UKという、イギリスの歴史や文化に関して書かれてる本から出題される、知識ゲーテストだ。イギリスの政治システムや、歴史に関する問題ならまだ良い。中には、XXXX年にサイクリングで金メダルを取ったイギリス人は誰ですか?とかいうどうしようもない問題もあるんだから困った。数オリの勉強から移行した先がアスリートの名前の暗記だった人はなかなか珍しいんじゃないかと思っている。コンピューター上でやる試験なのになぜか一万円近くとられるこのテストを何とかパスし*55、入学一か月前の8月末にギリギリ永住権を獲得した。

ちなみに、永住権を取得してから数年で、イギリス市民権(=国籍)を取得できるらしい。しかし、日本は二重国籍を認めていないので、当然ながら僕は取得する予定はない。なぜなら僕は日本人だから。

 

長かった中高編がやっと終わった~

次は大学とその後編、かな

*1:ブリーチなどの少年モノ

*2:給食のまずさとか。。。

*3:そして後にこのまま調子乗って大学は数学科に進むのである

*4:Grammar Schoolと呼ばれる

*5:私立の学費がすさまじい(学費が平均年収を超える学校もざらにある)イギリスでは、公立の試験あり学校は富裕層ではない教育熱心な家庭に非常に人気だった

*6:Verbal/Non Verbal Reasoning

*7:家でゴロゴロするのが昔から好きな僕が、人生で唯一学校の方が居心地がいいと感じた期間だった

*8:今でもスカイプの着信音にはトラウマを呼び起こす効果がある

*9:余談だが、受験しなかった場合行ってた現地の中高は数年後校長がドラッグ関連で捕まるなどしていたので、結果として頑張ってよかった

*10:500というトリックテーキングゲームをよくやった

*11:多分北京語

*12:現行法だと日本国籍は片親が日本国籍を出産時に持っていたら取得できるため、祖父の一人が日本人のX君も可能だったことになる

*13:だと思ってたが、ほかの学年でも日本人が同じクラスに入れられたりしてるらしいので、実情は分からず

*14:土曜日に、日本の小中で受ける国語の授業を日本政府によって与えられた教科書で行われる

*15:その後キャッチボールに誘われることはなかった

*16:これは大学卒業まで続くらしい

*17:という割には結構がっつり見てた気もするが

*18:当初8.9と速報が出てたが後に9.1まで訂正された

*19:なんでもうちょっとちゃんとした紙に書いてくれなかったのかは知らない。たしか実家に置いてあるはずだ

*20:こっちはたしか捨てた

*21:英語や何らかの外国語と日本語で一本ずつ

*22:厳密には、転職活動をしてることはすでに知っていたけど、可能性は低いので、編入試験対策はちゃんとしといたほうがいい、と聞かされていた

*23:張り出された紙から自分の番号を見つける、という日本式の合格発表は自分はこの一回しか経験したことがない

*24:出るときに2,3年で帰ってくる可能性がある、と伝えていた

*25:これは、幼少期からイギリスにいる人あるあるの感覚らしくて、R君もそうだったし、ほかの友人でも結構いる

*26:イギリスの数学五輪協会。非常に金持ち

*27:彼は後ほど同じ大学の同じ寮に数学科の後輩として入学する

*28:具体的には、集合論の基礎、写像と単射全射の定義、無限の定義、カントールの斜め論法までやった

*29:UKMTからすると思うつぼ、というところだ

*30:この印象は今でもあながち間違ってないと思うが、じゃあ自然科学だったら直接使えるのかというとそれもだいぶ怪しい。工学だったら実用性ワンチャンあるけど、それでも結構少ないらしい

*31:イギリスの中高は7年生から13年生まである

*32:日本で言うJMO本選に相当

*33:厳密に言うと、Japanese clubと聞いたので、当初日本語言語のものだとは思わなかった

*34:Von M氏自身は、碧眼はいいんだけど、金髪より黒髪の方がいいよね、という謎の美センスを持っていた

*35:当時、周りには「今後これより低い点数をテストでとることはないと思いたいね笑笑」という一級フラグ建築士ムーブをかましていた

*36:ここで会った内結構な数の人とその後数学科で再会した。数オリ勢が物理や化学科に行くことはないのだが、逆はかなり多かった

*37:これ今気づいたんだけど、先に物理の合宿があったらそっちに取り込まれてた可能性高くない?となると12年生ではなく中学の終わりに合宿を開くUKMTが策士ということか。。。

*38:時々後輩が顔を出してくれた

*39:そもそも日本語を勉強しに来たというより学校一ゆるい部活という噂を聞いてだらけに来た生徒が多かった気がする

*40:無許可

*41:中学受験が地獄すぎて、相対的に天国だったという面もある

*42:とピアノ。このころ、ピアノのABRSMのグレード試験がやっと終わり、卒業試験気分でDipABRSMを取った

*43:当初の結果発表では僕の名前が載ってなくて、自己採点的に行けると思ってた分意気消沈してたのだが、数日後に更新された。なんか先生が僕の答案を発送し忘れてたらしい

*44:天文学でも進んだけどこれは物理とバッティングしたので断った

*45:一部の手順が欠損してて自分で考えないといけない上、求められるスピード感とマルチタスクが半端なかった

*46:時には文字通り爆発した

*47:ほかにもサウジアラビア代表とかスペインとかも来てた

*48:まあこれはIMOに行く難易度は異常に高かったことも意味するのだが

*49:現北マケドニア

*50:華麗なるフラグ回収

*51:なお、5点でもイギリス代表6人の内5位で、最下位の子は2点を取った。この人とは現在シェアハウスで同居していて、時々この大会の話になるたびに、「でも僕君の2.5倍だったからな~(笑)」と最悪の煽りをしている。当然一問も完答できてない時点で大差ないし、大学での成績は彼の方がよっぽどよかったことがよりこれをバカバカしくしている。彼とはもうだいぶ長い付き合いになるな。。。

*52:当時ブレグジットの国民投票が行われて間もなかった

*53:STEPという、数学科専用の数学入試試験の過去問などをやった

*54:そこまでむずくないな、というのを事前に分かっていたから爆死の瞬間まで科オリに専念できた

*55:本番では、24問中3問がEmily Pankhurstの問題で、結局アスリートに関する問題は一問しか出なかった