「僕は日本人です」とは

全世界のプロ作家の方々に怒られそうなツイートをしながらちょっと考えた結果、本を書くほどではなくてもブログ記事にするぐらいは許されそうかな?と思い立ちこのブログ記事を深夜3時近くに書いてる。一応読者にとっての有益度が正であることを目指していた過去記事と違って、この記事に関しては読者の有益度度外視なので、文体も独り言のそれにする。読む人にとってちょっと物珍しさ・よみものとしての面白さがあるといいな、ぐらいで。

はじめに

我ながらかっこつけてあえて解釈の幅が巨大なタイトルをつけてしまった。大前提として、僕は数学科卒の文系的教養ゼロマンであり、文化歴史的な観点や国際法的な観点からの日本人を論ずることは到底できない。以下の話は100%僕個人が、「自分は日本人です」と自己紹介するときに何をもっていっているか、というとんでもなくスケールの小さな話だ。

一方でこの一文は僕の自己紹介で一番大事な文章でもある。

自分の自己紹介の残りの文章は、あくまで後付けであり、また多くの場合日本人だったからそうなった、というたぐいのものなので。

この記事では、自分の半生とその中で会ってきた「日本人」の話を中心に今現在(24歳)の自分の考えを書いていきたいと思う。

幼少期(-9か月~10歳)

幼少期は当然受胎から始まる。僕の両親は結婚直後に父の仕事の都合でイギリスに移住し*1、数か月後に母は僕を妊娠した。つまり僕はイギリスで「できた」(要定義)ことになる。いきなり雲行きがだいぶ怪しい。

出産まで数週間になった時、母親は一人で日本に帰り僕を産んだ*2。ここで当然、「なんでわざわざ?」という疑問がある。

一番目の理由として、母親視点でまだ一年も住んでない異国で出産するのは心もとなかったというのがあるだろう。それより祖父母もいるし日本語も通じる日本で産むというのは納得がいく。

二番目の理由として、両親の意向として、「子供には日本人であってほしいから」という気持ちがあったそうだ。日本の国籍法上これはなんも意味がない。出生時に親のどちらかが日本人だったら、どこで産まれようが日本の国籍はもらえる。では、親が「日本人であってほしい」と言うのは何を指して言っているのだろうか。「日本人だ」という自覚をもって生きて欲しい、ということになるだろう。そもそもこういう2番目の理由があったんだよ、という話を小学生の僕に伝えてる時点でつまりそういうことだ。

ここで、親の価値観に触れないといけない。僕の父は幼少期をアメリカで過ごした元帰国子女だ。一般論として海外在住になると愛国心が増大する人は多い。父も例外ではない。さらに父は軽めの(?)差別を受けたりもしたらしい。この結果、負けず嫌いな性格もあり、彼は「日本人であることを誇りにすること、さらに、異国にいるときは日本人を代表するぐらいの気概で臨むこと」というなかなかに硬派な価値観を身に着けた。ここで言う「代表」は、偉ぶる、という意味ではなく、「常時日本の恥にならないような言動に気を付ける」とかいうとんでもなく壮大かつハードルの高いものだ。

そういうわけで、父親はもともと非常に「日本人であること」に重きをおいており、初めて海外に移住して間もない母親もそれを強く意識してる状態だった、ということになる。子供に日本人としての意識をもってほしい、という考えになるのもわかる。

そんなこんなで無事自分は東京の病院で生まれる。そのまま母や祖父母に面倒を見られながら生後6か月までを日本で過ごした。このころまだ存命だった曾祖母との写真もあったりする。ここで、母は僕を連れてイギリスにいる父と合流する。まだ結婚間もない時なので、これも自然だ。そもそもイギリス配属も2,3年で、あと2年ほどでの帰国が決まっていたのだから、そこまで大きな負担でもない。

生後6か月にロンドンに移住した僕は、すくすくと育って3歳になった。正直このころの記憶は、キンダーガーデンで他の子と手をつないで踊った、というワンフレーム分しか残ってない。親によると、公園でリスと遊んでたら噛まれて、病院行きになり、以降リスにビビり散らかしてた、ということもあったらしい。どうやらビビりであることに関しては三つ子の魂二十四までだそうだ。このころ、今でも連絡を非定期的に取り合っている同級生のX君と知り合った。X君は、お父さんがウェールズ(イギリス)人で、お母さんが日本人と中国人のハーフの、クォーターだ。彼は後ほどまた登場する。

3歳になったころ、父親には予定通り日本への帰国命令が下り、家族一家で帰国した。帰国した後は普通の幼稚園から普通の地元の小学校に通った。父の仕事の都合で、6,7年後にはまた海外へ移動することがこの時点でほぼ確定していたので、両親は常にその前提で僕と接した。特に明確に覚えてるのが、上の「海外に行ったら日本人であることを誇りにし、恥がないような言動をする。相手にとっての全日本人に対する無意識の印象はあなた一人で決まる可能性があるのだから」という話をかなり口ずっぱく言われてたことだ。なんなら父親との入浴中にも言われた記憶があるので、小1以前とかの時点ですでに言われていたことになる。結果これは僕の価値観のかなり根本に根付いた。

また、小3のころから週一で一人で電車に乗って英会話教室に通わされた。我ながら小さい割にしっかりしてたと思う。今の方が電車降り遅れたりしてる気がする。これが小4,5となり異動の日に近づくと週2,週3となり、学校で英語の授業があると*3、ドヤ顔でイカした発音で答えまくってた痛いヤツをやってた。そういう自分の痛さもあり軽いいじめにもあった。それを気の毒に思ったのか人生初の彼女(笑)が出来たりもした。付き合い始めて一週間もたたないうちに、親からイギリスへの移動を伝えられたときは、なんで今やねーーーーんと思ったことをかなり明確に覚えてる。

学校にも移動することを伝え、小五の夏の前の最後の集会で、サプライズでお別れ会を開いてもらった。ホワイトボードの表側に普通の集会の連絡事項、裏側に僕に対しての寄せ集めが書いてあって、集会の最後に先生がホワイトボードを回転したときにかなりびっくりした。なんか即興でスピーチをすることになり、彼女(笑)が泣きはじめ、なんか気まずくなって僕も泣き始めた覚えがある。この後、いじめの主犯格だった子が謝ってくれたりもした*4。連絡先とかいろいろ交換したが、結局この後連絡を取れたことはなかった。彼女(笑)含み。

そんなこんなで10歳5か月頃、成田空港で祖父母やいとこに送られながらロンドン行きのターミナルへ向かった。飛行機の上で映画グリーン・マイルを見て、結構えぐい話だな。。。となった覚えがある。

 

ここまで書いて、いやもうすでに長すぎ!!!もう朝4時半!!!になってるので、とりあえず今回はここまでで次回10歳以降編を書きたいと思います。このテーマであと記事2本ぐらいは行けそう?

*1:移住する前に結婚を間に合わせた、と言った方が正しいかもしれない

*2:一応父も出産の瞬間には間に合ったっぽい?

*3:当時ゆとり世代が終わりを迎えており、英語の授業などが普通の公立小学校でもちょっと始まってた

*4:余談だが、ここで特に先生に強制されたとかでもなく個人対個人だった時に謝ってくれたことが、今の僕の性善説の根底にあるとおもう